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ちゅーりっぷ前線 −記憶を辿るノォト−

プロフィール

ブログ名
ちゅーりっぷ前線 −記憶を辿るノォト−
ブログ紹介
ここでは、

黙っていてくれて、構いません。

窓越しに、ちょっと中をのぞいてみた画廊。

そんな感じで。
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復活と再生

2012/05/20 23:04
知人からカードにするためのイラストを1枚頼まれていた事を、
その知人からの礼節をわきまえた丁寧な催促で思い出したのが、先週の土曜日。
慌てた僕は、その場で1週間後、金曜日の提出をかたく誓った。

ところが呆れたことに、ひと晩明けた日曜日にはコロリと忘れ、
そのまま水曜日まで、思い出しもしなかったのである。

日頃から我が家の婆さまたちの健忘症に、
怒ったり笑ったり、哀しくなったりしている自分であるが、
自分自身の物忘れについては腹が立つか、呆れるか、である。
哀しくなることは近い将来ありそうな気もするが、
笑ったりすることなどは生涯ないと思う。
ほんとに、自分の忘れっぽさには呆れて屁も出ない。

うそ、出る。よく出す。
この駄ブログを読んでくれている姪の顔が今浮かんでしまった。
「アキおぢちゃんのウソツキー!(私の前でぶっ放したくせに!)」
そう、うそはよろしくない。


さて、締め切りを思いだした水曜日。
外出先だった。
この日の天気は、一年中で五月にだけ特別訪れると
言いたくなるような極上の日和。
用事を済ませた後、あんまり気持のいい天気なので
コーヒーショップのテラス席に陣取り、遅い昼食をとることにした。
そこは、都心なのに視界が広く眺めのいい場所だったから、
よく晴れた空と、若葉の眩しい大樹を飽きるまで、
ただぼんやりと見ていることができた。

風が、まるで天国から吹いてきたようなやさしい風が、頬をなでていく。
風はそのあとで向うに見える大樹の方に行き、そよそよと新緑をゆらしていった。
(うーん、なんか久しぶりだなぁ、この感じ。
絵でも描きたいなぁ・・・。あっ!!!
というわけなのである。

思いだすことができたのはよかったが、そうなると居ても立ってもいられない。
至福のひとときを切り上げ、家路についた。

ラッシュアワーになりはじめの電車に揺られて1時間半。
帰宅すると、なんとなく家の中がおかしい。
まだ8時前なのに伯母(95才)はもうベッドの中。

2階に上がり母(89才)の部屋に行くと母も横になっている。
「…!」
息づかいで察した。
母を生涯苦しめてきた目眩病がでたのである。
いつものパターン。
目眩にやられると、頭痛と嘔吐と下痢がいっぺんにやってくる。
「・・・ごめんね。」と母。
「まーったくー、こまったもんだねー(笑)。」と冗談口で不満をいう自分。
これもいつものパターン。

冷蔵庫にあるものをそのまま口に入れ、晩ご飯終了。
そのあと日課にしているストレッチをテレビを見ながら小1時間。
それから自室に戻り、パソコンのメールチェック。

ひと息ついてトイレに入ると案の定、便座が大便で汚れていた。
ゴシゴシ便座を拭いていると、「ん?」
なんと涙が出ている。
びっくり。別に哀しくなんかないのに。
年をとった証拠だろうか。涙腺がゆるくなってきた今日この頃。

結局この夜は、イラストを描かずに就寝した。
(明日は木曜日。まだ一日ある!)
勿論勝算あってのこと。
明日木曜日は、隣県のK市で人に会うアポイントをとっていた。
(3時間余裕を持って出かけ、K駅前のタリーズコーヒーで・・・。ふっふっふ(不敵な笑い)。)


木曜日。
ぴったり2時、K駅に到着。
アポイントの時間が5時だから、
3時間、タリーズで作業ができる算段である。
予定通り(ふっふっふ)。

もう14,5年前になるだろうか。
タリーズはじめ、スターバックスとかエクセルシオール、
あとモスバーガーで、頻繁に絵を描いていた時期がある。
小さめのスケッチブックと、最初から絵具の出ている小型パレットと筆を
いつも鞄に入れていた。
そして時間をつくってはそれらの店に居座り数時間、お絵かきにいそしむのだった。
周囲の話し声がちょうどいい雑音になって描く集中力を高めてくれるのか、
わりとうまく描けることが多かった。
実際このブログにアップしている絵の相当数が、そうやって出来たものなのである。

しかしこの数年、それらの店に入ることはあっても
ただぼんやりしているだけ。
絵を描くことなどほとんど無くなってしまった。
そんな余力、残っていないのである。

でもこの日、僕はタリーズで久々に絵を描いた。描けた。
うれしかった。まだできる!
当時の感覚がよみがえる。

出来たのがこの絵↓。

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結構気に入っている。満足。

この夜帰宅すると、母の状態はいくらか回復していた。

明けて金曜日は、一泊での外出である。
夜と朝にはヘルパーさんに来てもらうが、
つなぎを九州の姉と埼玉の姉にお願いする。
電話で婆さまたちの安否確認をしてもらうのである。
もう3年くらい続いている毎週のこと。
まじめを絵に描いたような姉たちは、それぞれ忙しいのにも拘らず、
僕からのお願いメールにまず丁寧な返信をくれる。
そして安否確認の電話を九州の姉はお昼に、
埼玉の姉は夜にしてくれるのである。

この朝、電車の中で受けとった九州の姉からの返信。

年寄りと暮らすというのは、とてつもないエネルギーを消耗しますね。
気が休まる日はない、頑張りが無駄になることばかりで…
彰も同じ、なのに前向きにひたむきに、ばあ様二人を最優先に…
偉いです。見習わなきゃ、真似しなきゃと、今改めて思いました。
電話了解しました。
気をつけて行ってらっしゃい。


こういった言葉がどれほど大きな励みになるか、力になるか。
もちろん僕の実像から考えると、過ぎたもったいない言葉であるから、
鵜呑みにするような自惚れは控えなくてはいけないが、
けれど素直に有り難く、いただく。

そうすることによって、もしかしたら本当に、
そんな自分になれるかもしれない、と思うからである。



ところで九州の姉は、
認知症にかかったむこうのお義父さんを数年前に看取り、
現在は初期認知症にあるむこうのお義母さんの面倒をみている。


僕なんかよりずっと、苦労の毎日を送っているのである。













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ひと言で悟る

2012/05/07 23:41
先月、H先生を囲んでの食事会に参加した。
H先生は、I 美術研究所を主催していた画家である。
美術のビの字も知らなかった僕は、そこに十数年通い続け
美術を一からかじらせてもらった。
良かれ悪しかれ、「描くこと」に対峙するときの僕のスタンス、
その礎はH先生の背中を見ながら築いたものといえる。

だから駄目だったのかもしれないし、
それで良かったのかもしれないし、
兎にも角にも、今在る自分の半分くらいは、
I 美術研究所から、つまりはH先生から
学んだもので出来ているような気がする。

声が馬鹿でかい。その上自分のことしか喋らない。
H先生は巷に出ればただのヘンな爺さんだが、
それでも僕にとっては今も有り難い恩師なのである。


さて、幹事役の僕は、先生からリクエストのあった5人に声をかけた。
が、結局集まったのは、僕と最古参のS氏だけ。
ちょっと侘しいような気もしたが、まあ、毎回のレギュラーである
自分とS氏が揃えば一応、食事「会」は成立することになっているし、
大勢がそれほど好きでもない各々であるから、
そんな事は気にも留めずに半年ぶりの再会を三人は喜びあった。

席に着くや否や、早速始まる先生の大音量の饒舌。
数十分が過ぎた頃、ようやく一息ついて飲み物の注文。
先生は赤ワイン、S氏は焼酎、僕はノンアルコールビールを
右手に掲げて乾杯。
アルコールが体に入った先生のお喋りは、機嫌良く同じところをグルグル回りだす。
そして2時間近くたった頃に食事の注文。
勿論食べている間も先生の音声が途切れることはない。

毎度毎度、この調子で4、5時間である。
食事会の頻度が年に2,3回というのは、
なかなかいい案配だと僕は思っている。
正直これ以上多いとキツイ。
一度参加した人の2度目がない、というのも理解できなくはない自分である。
もしも年に4,5回とかになったら、そのうちの1回はたぶん欠席する。
ここだけの話。不肖の弟子の本音である。

さてさて、この日の食事会もほぼ定番通り、
4時過ぎから8時前まで続いたわけだが、
先生の間断ないお喋りの中に、ずっと僕が知りたかったことが
ほんのひと言だけ織り込まれてあったのである。
まるで一瞬の光の点滅のように。
ボーと聴いていたら聴き逃していたかもしれないが、
この時はちゃんと聴いていた。キャッチできた。
それで「ハッ!」とわかってしまったのである。


寝たきりの奥様を10年以上もずっと自宅で介護し続けている先生は、
奥様のものを身につけていることがたまにあった。
例えばカーディガンとかスカーフとか。
この日も首に奥様のスカーフ。
重ね着の中にちらっと見えるのは奥様の薄紅のボタン付きベスト。
そして、ズボンのベルトには、奥様の寝巻の紐を使っていた。

「(娘さんの亡くなった時のことを思い出して)そうだった。
スイスの展覧会のときだった。そうだそうだ。
スイスって言えばこのスカーフはスイスでの展覧会の帰りに
あっちの飛行場で家内の土産にと買ったものなんだよ。
気に入んなかったらしい。2万円以上もしたのになぁ。
だけんど私に気を使ってちょっとだけ使っていた。
このチョッキも家内の…。
(立ち上がってズボンを見せる)
ほら、このベルト代りに使ってる紐も家内の寝巻の紐。
(紐を締めなおしながら)家内がいなくなっちゃったからね。
あー、そうだったスイスでの展覧会…。
あの頃は売ることばかり考えていたなぁ。よく売れた。
でもな、S君、松岡君、そんなことじゃぁないんだよ。
(ここから最近の先生の心境話に再々再三の突入。)」



家内がいなくなっちゃった。

このワンフレーズで知った奥様の死。
頭の中を想い出が駆けめぐる。
涙が止まらない。

目の前では、ほろ酔い加減の先生がほろ酔い加減のS氏に向かって
相も変わらず大風呂敷を広げていた。





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ひとつの時代が終わるとき

2012/04/22 16:09
海辺の街にある文房具屋さんが、おととい閉店した。
その街に行くようになってから27年間、たびたび利用してきた馴染みの店だった。


おとといは、たまたま週に一度その街に行く日。
運がいい。
長年お世話になった店で、最後の買い物をすることができたのだ。
最初はお別れの挨拶がてら、くらいのつもりで入店するがいかんせん、
どの商品にもずい分値下がった値札がついている。
困った。消費欲に火がついてしまった。
結果、あれもこれもと買ってしまった。それなりの出費である。
(やってしまった・・・。)


画材屋さんと文房具屋さんは要注意!である。僕の場合。
ほんと。
入ったが最後、今必要でなくてもいつか使うかもしれないから、と
自分に言いわけをして、予定外の物まで買ってしまうのが常なのだ。
思えば、子どもの頃から文房具屋さんが好きで好きで仕方がなかった。
まずあの匂いである。
一歩店に踏み込んだ途端スッと鼻に入ってくる、消しゴムや紙類、筆記用具の混ざったいい匂い。
あれは今でも好きな匂いなのである。
そしてビジュアル。
きれいな色彩のプラスチック製品に、子どもの頃は特に魅かれた。
透明な赤、青、黄色、緑、紫、オレンジ・・・
なんというか、見ているうちに恍惚としてくるのである。


話を戻す。
たくさんの買い物をしながら、店の女主人と話をした。
「お客さん、今日が店の最後なんです…。」
「そうなんですね。先週、店員さんから聞いていました。残念です、とても。」

「このご時世ですから仕方ありません…。」
「そうはいっても文房具屋さん好きの僕は寂しい限りです。こちらのお店はいつから始まったのですか?」

「昭和25年からです。義父が始めました。」
「そうでしたか!なんとももったいないけど…、仕方がないです。」

お釣りを渡しながら女主人は、
「長い間ありがとうございました。」と言った。
「こちらこそお世話になりました。お疲れさまでした。」
僕がそう言うと、彼女は深々と頭を下げるのだった。
外に出ると、通りは大勢の観光客で賑わい、甘いお菓子の香りがほんのり漂っていた。
空は曇天。風が冷たかった。



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さて、話は変わるがタイトルは続く。
昨夜、海辺の街から帰宅すると、
流し台に白い物体が放置してあった。
「何これ?」
テレビを見ていた婆さま二人のかたわれが
即座に答えた。母(89才)である。
「それね、不思議なのよ。レンジに入れたら
そんなふうになっちゃったのよ。」

見れば、白い物体はプラスチック製のタッパーのフタ。
(おかしいな。レンジではこんな風に溶けたりはしないと思うのだが。)

レンジの方はどうなっているのだろうか。
確認するもとくに変ったところは無し。
「お母ちゃん、ほんとにレンジでこうなったの?」
「そうよ。」自信たっぷりの返事である。

どうも腑に落ちない。
もしかして…。オーブントースターを開けてみる。
するとどうだろう。
タッパーのフタが溶けて固まったものがベットリとくっついているではないか。

「お母ちゃん、だめだよ!オーブンにプラスチックの物を入れちゃぁ!」
「入れてないよ。レンジに入れたんだよ!」

本人が何と言おうが、れっきとした証拠がオーブンに残っている。
恐らく火が出たのだろう。
オーブンの中が焦げて煤けている。
火の気が心配で一昨年にオール電化に変えたのに、
これでは意味がない。
冷蔵庫を開けると、カチンコチンの焼き菓子のようなモノが一切れころがっていた。
とても食べられる代物でない。
母はこれを焼こうとしたのだ。

骨折する以前、母は僕の留守中によくクッキーを焼いた。
帰宅すると、香ばしい匂いが部屋を包んでいて、
不格好だが美味しいクッキーがテーブルの上に山積みになっていた。
僕も伯母(95才)もそれをほお張るのが好きだった。

母は、僕と伯母を喜ばせようとして、久しぶりにクッキーを作ろうとしたのである。
そしてその結果が今、目の前にある現実である。

溶けたタッパーのフタ。
煤けたオーブントースター。
カチンコチンの焼き菓子。
過失を自覚できない母。


オーブントースターは処分することに決めた。
新しいものをいれるつもりもない。
母のクッキーはお仕舞い。
それでいい。
美味しい思い出として大切に保存すればいいのだ。
懐かしくなったときにいつでも取り出せるように。


「このご時世ですから仕方ありません…。」
文房具屋さんの言葉がよみがえる。










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岸壁の母とアフリカ

2012/03/29 01:09
先日、婆さまたちと見ていた夕食後のテレビ。
“岸壁の母”をフルコーラスで初めて聴いた。
唄っていたのは勿論、二葉百合子である。

2つの意味でびっくりこいた。

一つは彼女の歌声。
お幾つなのか正確には分からないが、
芸能生活77年とか言っていた気がするので、
80歳は越えておられるかと思う。
それであのお声なのだから、大したものである。
現役の歌手と比べても、まったく遜色がないのだから。
唄うことを中心に据えた生活を怠ることなく、
長年きちんと続けていらっしゃることがよくわかる。

二つめは歌詞の内容である。
何を歌った歌かは、昔から知っていたことは知っていた。
ただ、馴染みやすい庶民的な曲調にだまされて、
こんなにも母の深い哀切を歌った歌として、
ちゃんと傾聴したことなど今までなかったものだから、
衝撃だったのである。

視界には入っていないが、
僕の斜め後方に腰かけている二人の婆さまたちは
泣いていた。
押し殺したすすり泣きが聞こえてくる。


シベリアでの捕虜生活を終えて父が舞鶴に帰港したのは、
昭和23年9月2日。
まる3年にも及ぶ過酷な運命を生き延びての生還であった。

そのとき母(現在89歳)は、父の母親つまりお姑さんと二人で暮らしていた。
母は終戦の年に命からがら、満州から引き揚げてきていた。
特筆すべきは、博多に上陸した母がまっすぐに向かった先が、
生家のある東京の日本橋ではなく、姑がひとり暮らす
愛知の片田舎だったということ。
東京大空襲のニュースを満州で聞いて、自分の生家は
もう、焼けて無くなった…と判断。嫁ぎ先を帰る場所に
決めたのだという。(実際は母の生家のある日本橋蛎殻町の
小さなエリアだけは燃えなかった。)←これは、伯母(母の実姉現在95歳)の
神通力のせいではないかと身内では囁かれている(笑)。

“亭主(あるいは息子)帰る”の電報を受けとった母と姑。

「ふーん。じゃ、お母ちゃんかおばあちゃんが舞鶴まで迎えに行ったの?」
と、僕が水を向ける。
「ううん。わたしもおばあちゃんもうちで待ってた…。」と母。

んー、そうだっけか。たしか父の自叙伝には違うふうに
書かれていた記憶が…。
すぐに本棚から出してひも解いてみる。


昭和23年9月2日、東京方面行の引き揚げ列車に乗り、
舞鶴駅をあとにした。
清州駅に着いた時には、すでに周囲は暗くなっていた。
プラットホームの電灯の薄暗い光に浮かび上がる
出迎えの人々の中に、まき子が立っているのがすぐにわかった。
飛びついてきたまき子を抱きかかえて、二人で何を話したのか、
今となってはまったく思い出せない。



「お母ちゃん、違うじゃない。清州駅に迎えに行ってるって書いてあるよ。」
「へぇー・・・。そんなの、もう忘れた、へへへ。」 暢気な返事をする母。

「お母ちゃんは日本橋の家を出たかったから、お父ちゃんとの
縁談に飛び付いたんだっけ?」
「そう、家を出たかった。日本を飛び出したかった…。」

「それで満州に暮らすお父ちゃんかぁ・・・。」
「でもわたし、満州よりももっと行ってみたい海外があったのよ。」

「えー、それってどこなの?(実はその答えを僕は知っている)」
「アフリカー!」

そう答えるときの母の言い方と顔が好きなのである。






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2012/03/18 16:27
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きのう見た朝の旅番組のワンシーンが呼び覚ましてくれた

中学一年生の時の記憶。弁当の時間にあったこと。



弁当の時間 -、

それは誰にとっても待ちに待ったうれしい時間である。

しかしある生徒にとっては、どこか小さく引け目やら、

恥ずかしさやらを感じながらやり過ごさなければならない、

キビシイ時間だったりもするのだ。


僕は想像する。

例えばある女子生徒は、ちょっとユニークなおかずに

恥ずかしさを感じていたかもしれない。

例えばある男子生徒は、お母さんの愛情たっぷりの可愛いらしい弁当に

恥ずかしさを感じていたかもしれない。


僕の場合それは、弁当のパッケージであった。

もともと好き嫌いもアレルギーもなかったし、

母親の手料理が好きだったから中味は言うことなし、

いつも美味しく頂いた。

また、母の苦労も子どもなりに知っていたから、絶対にひと粒も残さず

いつもきれいに平らげた。

しかし、当時すでにプラスチック製の弁当箱が主流になっていた中で、

草臥れたカネの弁当箱、しかもそれが新聞紙で包まれ輪ゴムで止めてあるという

外観が、13歳の少年にはどうにも恥ずかしかったのである。

その一方、

そんな風に外観にとらわれる自分が嫌でしかたがなかったのも事実である。

だからこそ、母親にはとても申し訳なくて、そんな思いを打ち明けることなどできないのだった。


葛藤していたのである。

弁当が恥ずかしかった。

そんな見た目にこだわる自分が、自分に対して、母に対して恥ずかしかった。

恥ずかしさの三つ巴である。(何とフクザツなことよ。)

明るく平静を装っていたが、実は心の中では

びくびくしながら弁当を食べていたのである。


葛藤する傾向にある人間というのは、臆病で打たれ弱い。

あの日、「いただきまーす!」の直後、後ろの席の**君が

クックックッと笑いながら僕にいった一言が、

顔から火が出るくらい恥ずかしかったのだ。


「松岡く〜ん、最初に蓋についたごはん粒をちびちび食べないでよ〜!クックックッ」


ハッ、とした。

言われてみれば、回りの席でそんなことをやってる人など一人もいなかった。

ただでさえ貧乏くさい弁当の容姿に引け目を感じていた自分である。

食べ方にまでそれが出ている、と指摘されたような気がして、

居たたまれない気持ちに沈んでしまったのだった。


以来、席替えが行われるまでのちょっとの間、

僕は最初に蓋に付いたごはん粒を食べることをやめてしまった。



最後に食べることにしたのである。




さて、そんな記憶を呼び覚ましてくれた旅番組のワンシーンであるが、

それは、温水洋一という俳優が思い出の地で、

思い出のミルクプリン(66円)を食べた瞬間のこと。


彼は最初に、蓋に付いた僅かのプリンをスプーンでこそげたのである。

うれしくなってしまった。

感動、と言ってもいいくらいに。


そして思い出したわけである。

弁当の蓋についたごはん粒のこと。















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すりガラス

2012/03/12 11:04
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すりガラスに絵を描いてみた。
チャコールペンシルを使ってみたのだが、
すりガラスとの相性が思いのほかいい。
描いていて、サクサクした感触が指に気持ちよかった。

描きながら思い出したことがある。
(そういえば、生家のすりガラスにも鉛筆で描かれた落書きがあったなぁ…。)
長姉が描いた手塚治のマンガ、「ワンダースリー」に出てくる
ウサギとオウムとウマ。
めちゃくちゃ上手い落書きだった。

そんな記憶のよみがえる3月。

そうだ。
3月と言えば、35年前の3月。
その月も終わりに近い小寒い雨の降る日、
長姉と次姉と僕の3人で鹿島神宮に行ったのだった。

残念ながら鹿島神宮そのものについては、ほとんど何も覚えていない。
ただ、やたらと長い橋を3人でトボトボ歩いたこと。
滅多に来ない帰りの電車を待つ間、駅前の小さな喫茶店に入って
ホットミルクを飲んだこと。
覚えているのはそれだけである。

特別楽しかったわけでもなく、つまらなかったわけでもなく…。
その時14才だった自分には、何だかよくわからないお出かけだった。

でも今ならわかる。

あれは、思い出作りだった。



長姉はそれから10日後、九州に嫁いでいった。
















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超私的人物図鑑 - ダンスの i 先生 -

2012/03/06 17:44
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↑全然似ていないことを最初に断っておく。

超私的―に添付した絵は、全てイメージだけで描いた

ぶっつけ本番のテキトー画である。

似てる似てないは、どうかご容赦ください。

(i 先生はこのブログを読んで下さっているのです。)



いつもレッスンのとき思う。

i 先生はダンスをするために生まれてきた人なのだ、と。

なぜなら -、

i 先生はダンスに必要な要素をすべて持っているのである。

身体においても、精神においても、魂においても。


何よりも、ダンスに対する愛着が深いのである。


そういうと、「三度の飯よりダンスダンスダンス!」みたいに

勘違いされそうだが、i 先生は違うのである。

三度の飯はちゃんと作るのである。御夫君のために。

家のコト、「暮らし」という生きる基盤を決してないがしろにしない。


僕はそこに、とーっても共感する。

「創る」「表現する」という行為をしながら生きていく上での、

i 先生の優先順位の付け方に共鳴できるのである。



明日、久しぶりのレッスン。

i 先生の元気を分けてもらいに行ってくる。


















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